『千と千尋の神隠し』は全体として傑作でないと言い切れる! 2022/11/10 By Leave a Comment ジブリの人気作。アンケートではジブリ全作品中上位どころか1位の結果が多いだろう。興行的にも鬼滅の刃に抜かれるまで邦画の歴代1位だった。 子供の横でチラチラ観てきたが、ちゃんと通して観るのは初めてで。 印象的なシーンは多い。豚化に始まり、窯爺、湯屋に来る2大バケモノ・・・ しかし、何だかよくわからない。 特にしっくり来ないのが、千尋の変貌ぶりだ。現代っ子が生きる力を持って行く物語なのだろうが、それにしても、最後はナウシカばりになる、その成長のスピードについていけない。 次にやっぱりカオナシ。オクサレサマの方は、川の化身が龍の姿となる設定で、それが最後に生きてくるので、綿密に練られているのがわかる。ではカオナシとは何か?千尋とは別タイプの成長者を描きたかったのだろうが、オクサレサマにしっかり理屈が通っている分そのシュールさに違和感が高い。 ウィキペディアに詳しく解説があり、それを読むとかなりすっきりとした。正直、本編を観ている時よりもおもしろかったかもしれない(笑) 本作は、宮崎や鈴木が「今の若者を描けていない」という焦りの中の産物だったらしい。その中で若手の作画監督安藤雅司を抜擢して制作が始まった。 ジブリは全体のコンセプトと前半のストーリーを作ってスタート、後半のストーリーはむしろ絵コンテの後にできてくるようなスタイルらしい。 その時点で問題が起こった。制作日程が押してくる中、内包していたものが表面化してきたと言った方が近いだろう。ひとつは、主人公をどうしても美化したい宮崎の体質と、現代っ子を描きたい安藤との軋轢。結果は当然というか、後半は宮崎路線に傾き、千尋のキャラや顔つきは、理想的冒険者へと変貌を遂げてしまう。 もう一つは、宮崎が発表した「今後千尋は湯バーバを倒し、さらに黒幕の銭バーバも倒す」というストーリーが「それでは3時間かかる」という理由で破棄されてしまったこと。その時ピックアップされたのが、ちょいキャラだったはずのカオナシであり、彼が千尋に寄り添って成長していく物語に後半が変更されたという。因みに、鈴木や宮崎は徐々に本作を「千尋とカオナシの物語だ」と感じるようになって、広告にもカオナシが使われる。 つまり、カオナシとは、制作時間の切迫の中、突然本作の一側面「摩訶不思議な世界」から、他の側面「理屈の通った部分」に引っ張り出された、2番目の成長する若者役なのだ。なるほど、この位相の移動が、僕が感じた違和感なのだろう。そして、そのことは、本来2番目に位置するハクを3番手の若者に押し出してしまう。 本作にまつわる迷走はこれに止まらない。 3つのコンセプト、すなわち現代社会での成長、言葉の大切さ、日本昔話直系のファンタジーのうち、宣伝用コピーは当初、糸井重里が3つ目に合わせた「トンネルの向こうは、不思議の町でした」が採用されたが、別人の作ったサブコピーである「〈生きる力〉を呼び醒ませ!」に取って代わられる。 これなども、前後で別の映画がくっついたような本作の性格を如実に表していよう。他にもコピーを提示したであろう糸井こそ、踏んだり蹴ったりだろうが(笑) さらに、公開においては、「もののけの半分はいくだろう」と挑発された鈴木がものものしい宣伝に舵を切り、上映館も増やして大ヒットを記録する。その後、「他の映画の上映機会を奪った」との反省に立って大々的な宣伝を止めることにしたというのは、ちょっと穿った見方をすれば、彼自身に「このレベルの作品をヒットさせてしまった」という思いもあるのではないか。 ・・・と、ここまでの論調を見ての通り、僕は本作の出来に対してはかなり懐疑的だ。ジブリ初期の傑作はもちろん、前作のもののけに比べても1段落ちると思う(75点)。しかし、本作を通して、いつまでももがき続ける宮崎駿や鈴木敏夫ら愛すべき老人の姿を垣間見れたことこそは、1本の映画鑑賞にまつわる娯楽として、なかなかに楽しいものであった。
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