エディット・ピアフは1915年生まれ。ピアフは雀という意味で、142cmの小柄なために与えられた芸名。
大道芸人の父とカフェ・シンガーの母の間に生まれたが、経済的な困窮のため、売春宿を営む父がたの祖母に養育された。15歳ごろ街角で歌う歌手になり、16歳の時に結婚・出産するも、2歳で病気により子を失う。
20歳ごろナイトクラブに職を得るが、彼女の後見人たるオーナーが殺され、共犯の嫌疑をかけられる。しかし、そのスキャンダルは彼女の知名度を上げ、25歳ごろから大きな成功を収めた。
その間、ジャン・コクトー、モーリス・シュバリエ、そしてアメリカではマリーネ・ディートリッヒと親交を深めたほか、1947年に、運命のボクサー(プロボクシングの名チャンプ)、マルセル・セルダンと知り合うこととなる。
第二次大戦中は、クラブでフランス兵捕虜のために慰問コンサートをした後写真を撮っていたが、これは脱走に使うためのものであり、ピアフのレジスタンス運動は多くの人を救っている。
マルセル・セルダンとの恋愛は飛んでもない物語を紡いだ。知り合って2年間の熱愛であったが、セルダンに妻子がいたため、恋愛に終止符を打つために書いた(作詞)のが名曲「愛の賛歌」だと言われている。
その発表をすべきアメリカでのコンサート。船便で来る予定のマルセルに、ピアフが「早く来て」と求め、空路を選んだ結果、旅客機の墜落に巻き込まれた。ピアフに訃報を伝えたのはディートリッヒであり、彼女が引きとどめる中、ピアフはその日のコンサートを強行実施、「愛の賛歌」を初めて舞台で歌った。まさに一世一代の歌唱だったことだろう。また、後年、セルダン・ジュニアのデビュー戦では、セルダン未亡人とピアフが並んで試合を観戦したという。
1951年に交通事故に会ったピアフは、治療に用いたモルヒネの中毒に、その後は苦しむこととなる。体調不良によるキャンセルを繰り返し、経済的にも破綻。50歳の手前で亡くなったときは、老人のような姿となっていた。
彼女のもう一つの功績は、イヴ・モンタンをはじめとする人材を世に送りだしたことだが、その過程として、彼らに恋をし、実際に関係を持ち、熱意をもって売り出すということを繰り返して来たようで、まさに「歌に生き、恋に生き」る女であった。
ほんとムッチャクチャでしょう?
そんな彼女が、フランスでは最も敬愛されるシンガーであるということ。それが痛快ですね、まず。
売春婦崩れの薬中女。不倫OK。男は惚れて、文字通り自分を通ってもらってから世の中に出す、というスタイル。これ、今の日本人が許容できますか? 僕はもちろん大好きです。薬中も、彼女にとっては悲劇であるけれども、そういう彼女のメンタルでこそ、世の中にあれほどの芸術を残せたのかもしれず、であれば、世のためには幸いであったのかも、と思う。
16歳の時に授かった子供に付けた名前が「マルセル」であったようで、そんな偶然も含め、クラブ・オーナーの死、マルセルを乗せた旅客機の墜落、そして第2次大戦までも、彼女にとっては、その芸術と、人生劇場を生み出す天の配材であったように感じてしまう・・・というのは、僕のロマンティック病がのたうちすぎてますかね。
なにより、大上段に構えず、赤裸々そのものに、人生を織りなしていったのがいい。巨大な曼陀羅のような、壮大な人生模様を現出しながら、しかし、ただ心を露わにして歌っただけ、いちいち恋に落ちて人を応援しただけだ、というのが素晴らしいところ、フランス人の愛してやまないゆえんではないでしょうか。
彼女について知れてよかった。
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