人は「物語」を求める 2014/10/14 By Leave a Comment 舞城王太郎氏の『ビッチ・マグネット』を読んだ。 舞城王太郎と言えば、確かここでもずいぶん前に紹介した『煙か土か食い物か』が圧倒的な力作&怪作で、お~っ、こんな作家がいたのか、と狂喜して他のを二つくらい読んだが、いまいちだった記憶があるという人。 新境地という位置づけの売り込みを見て久々に買ってみたが、作品としてはおもしろくもあり退屈でもある感じ。 ネオ青春×家族小説という裏表紙のコピーが言いえて妙で、随所にというか全体的に新しい。しかし、家族小説なるものに付きまとう微温さはどうしても読書の喜びの中心にはないかな。少なくとも僕にとっては。 しかし、ものすごくおもしろいことを書いていらして、目から鱗というか、これは自分の価値観に影響与えるなぁ~と思えたところがあったので、そこだけ(要約や抜粋をしながら)紹介しようと思う。 「認知行動療法の面白いところは、患者の子供のころのトラウマや人間関係が成長してからの症状の本質的な原因とはならないと考えるところで、これが本当なら80年代からずっと流行っている多くの小説や映画におけるドラマ部分の基礎構造が物事を単純化しすぎていてほとんどひどい勘違いに近いものとしてひっくり返ってしまうだろう。」 人間がそう単純じゃないのは当然で、大きな傷がついても、その発見までにいろいろな経験をして、それを自分の中で塗り込めることもできる。そして、傷を発見しても、それに相対してじっくり処理していかなければならない。 しかし、映画などで、トラウマを見つけて、医師が「自分のせいではないのですよ!」と言ったときに患者が激変するというのも、やはり実際に行われているはずのことだ。 「思うに、自分の内なるトラウマを発見することが自分を苦しみから解き放つ…というのはその構造自体が物語で、それを信じている自分とはその物語の登場人物なのだ。だからその語り口にリアリティがあり、それを信じさえすれば、主人公は文脈を阻害されないままある予定された通りの、願っている通りのエンディングへと辿り着く。物語としての治療法を読者としての患者が信じれば、物語は読者を取り込み、癒すだろう。 物語というのはそういう風に人間に働きかけることもあるのだ。 物理や化学とか数学とかの分野について私はよく判ってないけど、あらゆる《説》や《概念》が物語でないとも限らないのだ。 物語を信じることで社会も人生も成り立っているなら、あはは、なんとも呪術的な世界じゃない?」 ※「」内は引用、それ以外は要約です これは自前の論なのかどうか知らんが、達観だろう。 今の若い人たちからすれば意外かもしれないが、このように何らかの人間の弱点を子供のころのトラウマのせいに皆するということは僕らが子供のころにはなかったことなのです。だから僕らはどこか信じていない。 それから、催眠療法、特に前世に戻るとか、そういうのも、全部胡散臭いと思いながらも、効果はやはりあるのだろうなと思っていて、まあつまり僕もこういう考え方をうっすらとはもっていたが、本論はそれを説ききっている。 第一、なんでもトラウマのせいにするというのも、解決法がポジティブなようで、もっと根本ではネガティブな思考にも思う。それは「失敗せずに進むのが一番」という考え方でもあるからだ。子育ての本なんか見てても(笑)、普通に「体罰ダメ」(ついでに言えば「男の浮気ダメ」とも)書いているけど本当にそうなのか?じゃあ殴らなくなってからの子は、それ以前の子供よりいいのかよ、と思うけど、こういうのも「トラウマを与えないのが一番」という流行り学問から出たものだろう。 最後の学問全般にまで及んでいる部分もショッキングだ。 判明している事実の少ない歴史学は言うに及ばず、自然科学的な学説も、すべて人を説得させる力を持った物語である側面はあるだろう。そして、それが物語にすぎない可能性を1%でも持っていれば学説たり得ないとしたら、世の中はなかなかに進歩すまい。人はみな適当な物語を求めているのだ。 もちろん、それを文筆家自身が言ってしまえば、「小説というものにはこういう力があるのです。本作は人を更新させる物語たり得る力を持っているのです。」というメッセージにもなってしまうことは否めない。 大上段に構えてそう言った、とまでは言えない本作の作風だが、やはり作者にはそれくらいの気概があるのだろう。また、舞城氏はそれくらいのことを言えるポテンシャルを持った人であると僕は思う。
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