最近オーム真理教事件の指名手配犯が連続して捕まって、逃走劇についての情報が断片的に入ってきている。
遺族の方などには申し訳ないが、正直、僕としてはこれらの犯人(?)に、敵意など抱くことは到底できず、その逃走中の色濃いドラマのほうに、崩れたロマンを感じてしまうのだ。
菊地直子さんの若い時の写真を見ると、男性、特に上品だったり知的な男なら放っておかないタイプだと思うから、それはやはりいろいろあっただろう。
とまあ、こんな風に、小説の「悪人」じゃないが、通常の恋愛を超えた、ものすごく浸れちゃうような場面が数多く現出したのではないか、と不遜な想像をめぐらせてしまう。
僕もそれなりに歳をとった。
エゴン・シーレの「死と乙女」なんて絵を見て、以前には全くなかった絵心がくすぐられ、グッと来てしまったりするのも、きっとそのせいだろう。
この絵の男性はシーレその人がモデルに、そして、女性もまた彼の若い恋人がモデルになっているという。
ここでシーレは、若い恋人を抱くことによって命の喜びを感じながら、同時に、その来りくる別れを死と重ねてしまっている。
そして、そのことに、若い恋人の目は全然共感していないのだ。
かなり救われない絵と言えるだろう。
この、なんらかの方向性を、死と重ねてしまう発想こそが、老いの大きな特徴なのだと思う。
それはもちろん「重い」心情だ。
でも、そこにはなんとも言えない、陶酔感もある。
そして、それが僕にも、大いにだかちょびっとだか知らないが、わかる。確かにわかる。
オーム犯の恋愛は、このような老いの話とはまた少し違うが、でも、常に別れが自分のひとつの「終わり」を示唆していたことで共通しているし、そこには特別な重さ、陶酔感があったであろうことは、容易に想像できる。
悪趣味と言われるかもしれないが、どうしてもそういうものを見出そうとしてしまう。







