ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年オーストリア生まれの指揮者。若年期に順調にキャリアを積んだ後、戦時中のナチス入党を問われてやや不遇の時代もあったが、1955年にベルリンフィル、翌年にはウィーン国立歌劇場の監督に就任し、管弦楽演奏界の頂点に立って「帝王」と呼ばれるように。
颯爽たる芸風以外に、容姿やセールス感覚にも恵まれた彼の人気は、クラシック界のみにとどまらない。日本でも僕らが子供のころには、その世界をよく知らない人の間で「クラシックのレコード買うならカラヤンにしておけば間違いない」と言われるくらいだった。
その反面、彼にはいつもアンチがつきまとう。それはもちろん大成功したものへの妬みが大きいのだけれど、それだけともやはり言えない(のが僕くらいでもわかる)。
彼が批判されるときに必ず出てくるネガティブワードは「精神性に欠ける」というもの。事実、彼の演奏で、誰からも高く評価されているのは、標題音楽やオペラ、小品など、ストーリー性が強くて、解釈云々を言わなくても、そこが何を表しているかが明々白々な曲ばかり。特にR.シュトラウスは、その豪華趣味も重なって極め付けとされるが、逆に、信仰心を表出したブルックナーの交響曲では、音がやかましく鳴っているだけ、という風にくさされるのだ。
要するに、オケを操るのはめっぽううまいが、曲の精神性を表すのは苦手もしくは門外漢。俺たちゃもっと深い音楽が聴きたいので、(オペラなどを除いて)カラヤンの音楽じゃもの足りん、というワケね。
・・・と、ある程度クラシック(CD鑑賞)好きな人の間なら、この辺りまでは共通認識だろうと思うけど、でも、そういう知識のない人には、もひとつわかりにくいかもしれない。
う~ん。皆さんにイメージしてもらいやすいように、現代の日本人でカラヤンに似たような人はいないかしら・・・?と考えて、先日ピンっ
「容姿と万能型を武器に、『帝王』にまで行き着いたナルシスト」とくると、キムタクこと木村拓哉で決まりじゃないか!
この人も、地位、実力ともに周りを納得させる部分が間違いなくあるその一方で、「キムタクはいつものキムタクでしかないね」などとの批判がいつもついて回る。つうか、その辺の小娘にさえよくそういうことを言われてるよねw
CMやバラエティは完璧、連ドラもこなす。要するに、尺の短いものや、こういうことを表してくださいというのが明らかな仕事はめっぽう強いが、本格的な映画などでは「軽さ、浅さ」が前面に出て全然ダメ、となる。つまり「精神性がない」ということとほとんど同じちゃう?
2人ともに、常識人で、超上昇志向。つまり俗物そのものなので、アーティスティックにとがったところや、いわく言い難い奥深さなどに欠けてしまう。よく言えば万能型だが、悪く言えば器用の延長で何かをやってる感じなので、○○馬鹿になりきってる迫力がないんだな。
確かに、カラヤンの交響曲演奏は、どの部分も本当に音色美しく、楽しく聴かせてくれるが、ある程度クラシックを聴きこんでくると、1曲どころか、1楽章の間ですら、正しい意味での設計図ができていないのでは?と思うことがよくある。
彼は、いわゆる「レコ勉」と言って、他人の演奏をレコードで勉強した最初の指揮者であるとも言われているけど、その「いいところ取り」の悪弊が、僕らレベルの聴き手にさえ透けてしまうのかもしれない。
そして、そんなものが、本当に自分の中から生まれ出てきた音楽と呼べないことは言うまでもないだろう。
しかし、だからこそ現代人に通じるのであり、それこそが現代の芸術の一つでいいのだ、という風にも言えると思う。
フルトヴェングラーの時代には、彼ひとりが音楽バカであっただけでなく、あらゆる分野に○○バカがいた時代であるが、現代はそういう世相でなく、つまり、現代にフルヴェン世代を聴くのはただのノスタルジー趣味に過ぎない。現代自体がセコくて、こじんまりした世の中だから、芸術にもそれが当然反映されるのだ、と。
事実、日本のメンズアイドルの世界でも、キムタク、福山など、器用さの延長で何かをしていて、底力にはかなり疑問符が付くようなタイプばかりがモテて久しい。
そして、彼らがかっこよくてモテるのはわかるけれど、でも、なんか「その辺に転がっている男の延長にある」としか思えなくもあるんだな。
いや、ちょっと脱線気味になったね
でも、カラヤンの芸風やキャラ、そして、彼の人気を生んだ世相などについての、僕なりの解釈が少々伝わったでしょうか?
僕自身はカラヤンの演奏が結構好きで、しかし、それを精神的にとても豊かな世界であるとは思わずに聴いている気がします。つまり、あまり豊かな趣味とは思わずに音楽鑑賞しているということ。
そして、ある意味「それでいいのだ」 なのです








